東京地方裁判所 昭和47年(行ウ)142号 判決
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【判旨】
抹消登記をすべき要件欠缺の主張について
(一) 本件土地の元番である一六〇九番の土地が明治三九年五月二二日寄洲三五町一反二五歩として内務省名義で保存登記され(但し、当時の表示は、東京府荏原郡羽田村大字江戸見崎耕地一六〇九番)、その後地目が雑種地に変更された土地に由来していること及び右と同じ時期に一六〇八番寄洲三三町三反二畝六歩が内務省名義で保存登記されたことは当事者間に争いがない。
そこで先ず、右一六〇九番及び一六〇八番の各土地の範囲について検討するに、<証拠>によれば、①右一六〇八番及び一六〇九番の二筆の土地の所有権を有すると主張する鈴木兵右衛門外三名が原告となり、右二筆の土地について武田忠臣が明治三三年一〇月一八日ほしいままにこれを東京府荏原郡羽田村大字鈴木新田字江戸見崎北ノ方番外一三番寄洲七〇町五反八畝一〇歩として保存登記し、明治三四年四月二六日これを同所一五九二番雑種地七〇町六反四畝二二歩と変更登記したとして、同番から分筆された同番一、三、四の所有名義人武田忠臣及び同番二の所有名義人京浜電気鉄道株式会社外一名を被告として、一六〇八番及び一六〇九番の土地の所有権確認並びに一五九二番一ないし四の保存登記抹消等を求めて、明治四二年東京地方裁判所に訴えを提起したが(明治四二年(ワ)第六一〇号事件、以下「第一次訴訟」という。)、同裁判所は大正二年一二月二六日鈴木兵右衛門らの請求を棄却する旨の判決を言渡したこと、②ところがその後、第一次訴訟の被告武田忠臣から数次の権利移転を経た後一五九二番一、三、四が合筆された同番一の土地五三町三反三畝一〇歩(一六万坪)の所有権を昭和四年一二月二八日取得したと主張する国が原告となり、右一六〇八番及び一六〇九番の土地につき第一次訴訟原告鈴木兵右衛門らから数次の所有名義の移転を経て、一六〇八番につき昭和一七年四月一八日付で、一六〇九番につき同年二月四日付で登記簿上の所有名義人となつた野本治平(但し、この登記簿は戦災により焼失したため、同人はあらためて昭和二七年一二月一六日付で両土地について所有権保存登記をし、その後両土地はけつきよく同番の各一、四、五、六に分筆された。)外五名を被告として、一五九二番一の土地の所有権確認及び一六〇八番、一六〇九番の各一、四、五、六の土地についてなされている野本治平の所有権保存登記の抹消等を求める訴えを同裁判所に提起し、野本治平外一名は国に対し、右一六〇八番、一六〇九番の各一、四、五、六の土地の所有権確認と一五九二番一についてなされている国のための所有権保存登記の抹消を求める反訴を提起したところ(昭和三二年(ワ)第二一四七号、昭和三四年(ワ)第一四七六号及び同年(ワ)第五二二四号事件、以下「第二次訴訟」という。)、同裁判所は昭和三八年三月三〇日、一六〇八番、一六〇九番の各六の土地に関しては国の本訴請求、野本治平の反訴請求をいずれも棄却し、その余は遅延損害金の一部を除き国の本訴請求を認容し、野本らの反訴請求を棄却する旨の判決の言渡しをしたことが認められ、この認定を左右する証拠はない。そうして、
(1) 第一次訴訟、第二次訴訟の一審判決(前掲乙第二五号証、第三一号証)を検討すると、一六〇八番及び一六〇九番の二筆の土地の登記と一五九二番の土地の登記とは、いわゆる二重登記となつていたものであるが、そのようになつたそもそもの由来は、明治五年八月折橋政嘉及び石黒堅三郎の両名が東京府から「東京府荏原郡羽田村鈴木新田糀谷村地先海岸寄洲一五〇町歩」につき鍬下年季(地粗免除期間)一五年とし、代金二二五円をもつて払下げを受け、明治二一年ころには右折橋の相続人折橋桂造及び右石黒の権利承継人田中三四郎が右権利を取得し、その後右折橋桂造の相続人折橋芳郎及び右田中三四郎の両名が東京府に対し引渡方を求めたところ、東京府は実測のうえ、明治三九年五月二二日これを内務省名義で保存登記したうえ、同月二八日右両名に対し所有権移転登記を了したものであつて、一六〇八番及び一六〇九番はこのようにして右両名が所有権移転登記を受けた土地のうちの二筆であること、ところがこれより先、右折橋桂造及び田中三四郎は払下げを受けた一五〇町歩の権利を他に処分し、数人の者を経て明治二五年一二月一八日武田忠臣がこれを買受け、その完全な所有権を取得したとして、係争土地の部分については明治三三年一〇月一八日これを前記のとおり東京府荏原郡羽田村大字鈴木新田字江戸見崎北ノ方番外一三番寄洲七〇町五反八畝一〇歩(後に変更されて同所一五九二番雑種地七〇町六反四畝二二歩)として保存登記していたのであつて、係争土地の二重登記は以上のような事情に起因していることが窺われる。
(2) <証拠>により真正に成立したものと認められる乙第二〇号証(第一次訴訟の原告鈴木兵右衛門ら代理人弁護士岡崎正也外一名作成にかかる「払下地重複概況輯合図」)によると、当時の一六〇八番及び一六〇九番の土地と一五九二番の土地とはおおむね重なり合つた土地として表示されており、ことに両者はいずれも北側は海面、東側は東貫澪、西側は海老取川に囲まれた区域であり、その北端の海面との境界線はほぼ東西に走る直線であつて、ほぼ合致し、かつその東端部分においてやや南方に折れ曲がつた形状を呈していることが認められる。
(3) <証拠>により真正に成立したものと認められる乙第二一号証(東京府属岡村端外一名作成にかかる「払下区域実測図」)には、武田忠臣が取得した七〇町五反八畝一〇歩の土地の範囲が明示され、その形状は右(2)の図面に示された一五九二番の土地の形状に合致していること及び右土地の北端境界線は、海老取川をはさんだ対岸の大森町と麹谷(後の糀谷と思われる。)村との間の行政区界である水路を東方に延長した線にほぼ合致し、右北端線の北側は海面として表示されていることが認められる。
(4) 成立に争いのない乙第四二、四三号証は、<証拠>によると、富永了一が昭和五二年六月二八日東京都公文書館において複写した図面であつて、その原図は、記載されている文言及びその趣旨からして東京府が前記のとおり荏原郡羽田村大字鈴木新田地先一五〇町歩を実測した際に作成されたものであると推認されるところ(なお、これと乙第一九号証とを対比すると、乙第一九号証は右乙第四三号証の原因を基とした縮尺図であると考えられる。)同図面に表示されている一六〇八番及び一六〇九番の土地の形状は右(2)の図面に表示されたところとほぼ合致していることが認められる。
(5) <証拠>によると、折橋政嘉及び石黒堅三郎は明治五年八月寄洲一五〇町歩の払下げを受けたが、右払下げを受けるために当局に提出した払下願書等の書類において、出願の場所を当初羽田村、鈴木新田及び糀谷村地先の外、大森村地先をも加えていたところ、後これを改め、大森村地先を除いて出願し、明治五年八月に東京府が同人らに払下げた場所の表示も前記のとおり「羽田村鈴木新田糀谷村地先」としているのであつて、大森村地先は払下げ対象区域から除かれていることが窺われるのであるが、この事実は右(3)の図面の記載と符合している。
(二) 右に認定したところによれば、一六〇八番及び一六〇九番として地番が付された土地は、明治五年に羽田村鈴木新田糀谷村地先海岸寄洲一五〇町歩として払下げられた土地に由来し、その一部であつて、一五九二番として地番が付された土地とほぼ重なり合い、大森及び糀谷両地区の行政区界である水路を東方に延長した直線(但し、東端においてやや南方に折れ曲がつている。以下同様の趣旨で用いる。)の南側に位置していたものと認めるのが相当であるところ、この事実は以下に認定するこの附近の地形にも符合している。
(1) 成立に争いのない乙第四一号証は、陸地測量部が大正一一年に測図し、昭和三年及び同七年に修正を加えた二五〇〇〇分の一の地図であるが、これによると「羽田飛行場」と記載のある区域の北端附近の形状は前記(一)の(2)及び(4)の図面に表示されている一六〇八番及び一六〇九番の土地の北端附近の形状と符合し、かつ海老取川をはさんだ対岸との位置関係は前記(一)の(3)の図面の記載にほぼ合致しているのであつて、大森町とその南側の糀谷地区との間の行政区界である水路を東方に延長した直線が右「羽田飛行場」の用地の北端線にほぼ合致していることが明らかである。なお、この地図によると右北端線の北側には干潮時に水面上に洲となつてあらわれるものと思われる部分の記載があるが、その辺縁の形状は前記(一)の(2)及び(4)の図面に示されている一六〇八番及び一六〇九番の北端線の形状とは全く異なつている。
(2) 米軍が撮影した羽田空港及びその周辺の航空写真であることに争いがない乙第二二号証は、<証拠>によれば、昭和二〇年一一月ころ撮影されたものであることが認められるところ、この写真に写つている羽田空港用地の北端附近の地形及びこれと海老取川をはさんだ対岸との位置関係は右(1)の地図に記載されたところとほぼ一致し、右用地北端線の北側は海面であることが看取し得る。
(3) 前掲乙第一一号証の一は、前記のとおり国際航業株式会社が昭和二七年七月一日の直前ころ撮影した羽田空港及びその周辺の航空写真であるが、この写真に写つている空港の全景は右(2)の写真とは大いに異なり、二本の滑走路(前掲乙第三六号証によると南東から北西へ延びているのがA滑走路、南西から北東へ延びているのがB滑走路である。)が整備された状況が認められるのであるが、空港用地北端附近の地形及びこれと海老取川をはさんだ対岸との位置関係は右(2)の写真とほとんど変化はない。
(4) アジア航空測量株式会社が撮影した羽田空港及びその周辺の航空写真であることに争いのない乙第一六号証の二は、<証拠>によると昭和三二年八月二三日午前一一時一五分ころ写真測量用のカメラで撮影したものであることが認められ、極めて鮮明な写真であるが、この写真に写つている空港北端附近の地形及び西側の海老取川とその対岸との位置関係は(3)の写真と同様であつて、空港用地北端線が対岸の大森、糀谷両地区の間の水路を東に延長した線にほぼ一致し、その北側は海面であることが容易に看取し得る。
(5) 前掲乙第一一号証の二は、前記のとおり国際航業株式会社が昭和三五年五月八日撮影した羽田空港及びその周辺の写真であるが、<証拠>によれば、この写真は当時の航空保安庁羽田航空保安事務所の注文により撮影されたものであることが認められるところ、この写真によると、空港用地自体の地形及びこれと海老取川をはさんだ対岸との位置関係は(4)の写真に写つているところと変化はないが、空港用地北側から南東側の海域にかけて突提が設置されていることが認められる。そうして<証拠>によると、この突提はA滑走路の北東側にこれと平行した新滑走路を建設するための埋立てを行なう目的で、昭和三四年ころからその工事を施工していたものであるが、空港用地北端線とその北側に設けられた突提との間の海域は、突提によつて完全に閉塞される前は漁船が通航していたことが認められ、前掲乙第一五号証添付の図面(昭和四三年五月二〇日付運輸大臣の埋立竣工図)の記載と対比するならば、埋立ては右突提の内側の海域について行なわれたものであつて、埋立竣工後の空港用地の外縁線の形状は右突提の形状に合致していることが明らかである。
(6) <証拠>によると、昭和二八年二月ころ当時の東京調達局不動産部は羽田空港用地の調査図を作成したが、右作成の目的は同地区の公図が戦災で焼失し、存在していなかつたため、羽田空港が米軍から返還されたときにそなえて、その円滑な利用関係を期するにあたつたこと、右調査図は米軍が撮影した航空測量の写真を基にして、全域を六〇〇分の一の図面一五葉に表わし、関係権利者が所持していた図面等を参照しながらこれに地番と所有者名を記入したものであること、当時の空港用地北端附近の現況は、石積みの護岸が設けられ、その上に数メートル幅で天端コンクリートが打つてあつて、道路となつており、右護岸の北側は常時海水によつて覆われている海面であつたことが認められる。ところで右調査図によると、右護岸の線の北方(図面上で測定してみると約一八〇メートル北方の位置)に、護岸線とほぼ平行な破線が描かれていて、右破線と護岸線とによつて囲まれた区域が一六〇八番、一六〇九番の土地であつて野本治平の所有に属するものであるかのような記載がなされている。しかしながら、<証拠>によると、右破線の位置は当時海面であつたのに、野本治平の代理と称する者が野本の土地の境界線だと主張したため記入されたものであつて、その位置に何らかの標識等の物があつたわけでなく、また右破線と石積みの護岸線とに囲まれた区域が陸地となつていたわけでもないことが認められるのであつて、このことは右(2)ないし(5)の写真によつて認められる同所附近の状況に照らしても十分首肯し得るところである。
(三) 以上(一)及び(二)の事実によれば、一六〇八番及び一六〇九番と地番が付された土地の範囲は、大森及び糀谷両地区の行政区界である水路を東方に延長した直線のほぼ南側にあり、両土地の北端線の形状は昭和三五年ころまでの羽田空港用地北端の石積みの護岸の線にも符合し、その北側は、干潮時に洲となつて水面上にあらわれる部分があるにせよ、海面であつたことが認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。
しかるところ、<証拠>によれば、前記二2の冒頭記載のとおり昭和二八年三月二五日付で野本治平によつてなされた地積訂正及び分筆の各申告書に添付された図面は右(二)(6)の東京調達局不動産部において作成した調査図を基にして、これを縮尺したものであり、従つて右添付図面の一六〇八番及び一六〇九番(但し、各一ないし三に分割してある。)の土地の北端線は右(二)(6)で認定した石積みの護岸線に一致しているものというべきであり、右の乙第四、五号証の各二と前掲乙第七ないし第一〇号証の各二とを対比するならば、一六〇八番及び一六〇九番に附加された山形部分は従前の同番の土地の北端線の北側にこれと接続して附加されたものであることが明らかである。そうして右の山形部分を右乙第一〇号証の二(昭和二九年一二月二〇日付分筆申告書添付の図面)によつて示すと別紙図面(二)記載のとおりである(但し、同図面中、各点間の距離を示す括弧内の数値は右添付図面に記載されているところをメートルに換算したものであり、B1、B10、B9、B8を結ぶ線が右護岸の線に相当する。)。
ところで、<証拠>によると、野本治平がした昭和二八年一二月一四日付地積訂正の際、その申告書に添付して山形部分を附加して地積を訂正することの証明書とされた図面は、東京府知事が昭和一四年一月三一日付で東京府に対し公有水面埋立の免許を与え、同一六年五月一九日付でその設計変更を許可した際の許可書に添付された図面の写であり、同図面には「羽田飛行場」とある区域の周辺に「第七区」として埋立免許区域が記載されていることが認められるところ、同図面の「羽田飛行場」の北端線附近の地形は前記(二)(1)の地図、同(2)ないし(5)の写真に示されている羽田空港北端附近の地形と合致しており、「第七区」と表示された部分については、前掲乙第六号証に記載されている東京都港湾局長の証明によつても、また前記(二)で認定した事実に照らしても、昭和二八年一二月当時埋立工事はなされていなかつたことが認められるのである。
(四) 以上のとおりであるから、野本治平が地積訂正によつて附加し、分筆によつて一六〇八番六及び一六〇九番六との地番を付した山形部分は、右地積訂正及び分筆がなされた昭和二八年一二月一四日及び同二九年一二月二〇日当時海面であつたことが明らかであり、従つてこれを表示するものとしてなされた本件土地の表示登記は無効という外はない。
なるほど、<証拠>によると明治初年の法制においては、海水が常時侵入する地所についても、これを払下げによつて私人の取得しうる権利の対象とすることができるものと考えられていたのであり、前記折橋政嘉及び石黒堅三郎が明治五年に払下げを受けた海岸寄洲一五〇町歩に対する権利は国がそれまで有していた総括支配権であつて、この権利は民法施行により当然に土地所有権に移行したと解すべきであるというのであるから、かかる地所については、現に海水が常時侵入する状態にあるとしても、その区域が他の海面から区画され、かつ管理・支配が可能であるときは、一概に所有権の客体となり得る適格性を否定されるべきものではなく、そうだとすれば、かかる地所については「土地」としての登記能力を備えたものといえなくもないが、本件土地を含む山形部分はもともと払下げの対象外の土地であつて、一六〇八番及び一六〇九番として地番が付された区域には含まれていなかつたのであり、かつ(二)及び(三)に掲げた各証拠によれば、同番の各六として地番が付された当時、その部分の海面に何らかの区画がなされ、管理・支配が可能な状態にあつたとは到底認められず、他にこれを肯定するに足りる証拠はない。従つて、本件土地の表示登記を有効であると解する余地はない。
原告は、野本治平がした一六〇八番及び一六〇九番の地積訂正及び分合筆は東京調達局の指示に基づくものであると主張し、なるほど<証拠>によると、原告指摘のように一六〇八番及び一六〇九番の各一に同番の各二、三を合筆したうえ、あらためて同番の各一から同番の各四、五を分筆した経緯の存することが明らかである。しかしながら右合筆及び分筆の間に行なわれた地積訂正による山形部分の附加が東京調達局による指示に基づくものであることを認めるに足りる証拠はないし、仮に右手続の過程において同局が介在していた事実があつたとしても、山形部分がもともと一六〇八番及び一六〇九番の範囲には含まれず、右の部分が当時海面であつたとの以上の認定を左右するものではない。
また、<証拠>によると、昭和三四年から昭和三八年までの固定資産課税台帳には本件土地が登載されていたことが認められるのであるが、土地が土地台帳に登載されたときは登記所からの通知により固定資産(土地)課税台帳に登載される仕組みになつていたこと(昭和三五年法律第一四号によつて廃止される前の土地台帳法第三九条、右法律によつて改正される前の地方税法第三八二条参照)に照らすならば、右の事実は山形部分の土地に関する以上の認定を左右するものではない。
(五) 原告は、仮に本件土地の地番設定当時本件土地の部分が海面であつたとしても、本件処分当時には陸地となつていたのであるから、本件土地の登記は有効な登記となつていた旨主張し、本件処分当時本件土地として表示される部分に一部重複して埋立てがなされていたこと自体は当事者間に争いがない(もつとも原告らは、その正確な位置を特定していない。)。
そこで考えるに、<証拠>によると、前記(二)(5)の写真が撮影された時期より後に運輸大臣による羽田空港拡張のための公有水面埋立工事が施工され、昭和四三六月一日にはこれが竣工したこと、右埋立工事によつて従前の羽田空港用地北端線(前記石積みによる護岸の線)の北側に附加造成された部分の面積は199885.28平方メートルであつて、右北端線の西端と埋立てによつて附加された部分の南西端とは一致していること及び右のとおり従前の空港用地北側に附加造成された土地については昭和四七年五月一〇日付で「東京都大田区羽田空港一丁目九番、雑種地一九九八八五平方メートル」として表示登記がなされたことが認められる。そうして右乙第一五号証添付の図面(埋立竣工図)に基づいて右埋立地の形状を示すと別紙図面(一)記載のとおり、A1、A2、A3、A4、A5、A6、A1の各点を順次結んだ線内の部分であり、なお、この図面と別紙図面(二)の山形部分とを同一縮尺をもつて重ね合わせてみると概略別紙図面(三)記載のとおりとなる(但し、これは右認定したところに従つて別紙図面(一)のA1点と別紙図面(二)のB1点とが合致するものとして作図したものである。)。
右の事実及び図面(三)によれば、被告が本件処分をした当時、山形部分に一部重複するようにして埋立てによる土地が造成されていたことが明らかであり、また実体要件を欠くが故に無効な登記であつても、後に右登記が表示するところと同一性を有する実体が存在するに至つたときは、該登記の流用を認めて、有効な登記に転化したものと見て差支えない場合もないではない。しかしながら本件の場合、以上に説示した一六〇八番及び一六〇九番として地番が付された土地の沿革からして、その範囲が別紙図面(三)のB1、B10、B9、B8の各点を結ぶ線の北側には及んでおらず、かつ山形部分は海面であつたところ、後に運輸大臣によつて埋立て造成された土地は、右山形部分とはその形状、面積を全く異にしているのであつて、山形部分の表示登記によつて客観的に把握されるところと同一性があるとは認められず、従つて右登記を埋立てによつて造成された土地の表示登記に流用し、有効と解する余地は全くないものというべきである。
なお、原告は、右公有水面埋立につき竣工認可(公有水面埋立法第二四条第一項)がないから国はその所有権を取得しないと主張する。しかしながら、国が公有水面の埋立てを行なう場合には、当該官庁が都道府県知事の承認を受け(同法第四二条第一項)、竣工したときは同知事にその旨通知する(同法第四二条第二項)ことにより、該埋立地の所有権は国に帰属することになるものと解すべきであるし、そもそも本件の場合、運輸大臣が施工した埋立地の所有権を国が取得するか否かは本件土地の表示登記の有効無効とは直接関係がないものというべきことは以上の説示によつても明らかであつて、いずれにしても原告の右主張は理由がない。
(六) 以上のとおりであるから、本件土地の表示登記を抹消するための要件が欠缺していたとの原告の主張は理由がない。
(藤田耕三 原健三郎 揖斐潔)